桜のつぼみ膨らむ川越の城下町は、春の訪れに賑わっていた。
花咲けば宴。盛りは泡沫。誰もが皆、今しかないこの一瞬を楽しんでいる。
小江戸と呼ばれる埼玉県の川越は、直線距離で都心から30分。
明治26年の大火ののちに耐火建築として採用された「蔵造り」が立ち並ぶレトロな街並みや、江戸寛永年間から時を刻み続けている「時の鐘」が有名だが、歴史ある寺社仏閣や石畳の通路に駄菓子屋が軒を連ねる「菓子屋横丁」を巡るのも楽しい川越城下のエリアである。
旅の初めの中継地に川越を選んだのは、単純に、荷物フル装備のツーリング初日ということで様子見をする距離範囲として都合がよかったのと、川越への道に多少なりとも土地勘があったためだ。
言い換えれば、自分にとって川越は再訪の地なのである。
カブを購入したばかりの3年前の春、国道134号線の海沿いツーリングが爽快な湘南・江の島の次に訪れたのが、素朴なバイクが似合う城下町の川越だった。両スポットとも、東京近辺に住むライダーなら一度はツーリングの目的地とする場所であろう。
当時は気まぐれで着物をレンタルして城下町を散策したり、歴史資料館で個性強めな老齢館長からマンツーマンで解説を受けたり、静謐な三芳野神社で童謡『とおりゃんせ』を口遊んだりしたものだ。
街並み自体は古いものの管理が行き届いていて清潔。若年層向けのカフェや写真映えするさつま芋グルメの出店も多く、比較的活気がある観光地という印象が川越にはあった。
しかし新型コロナウイルス感染症が5類に移行してから1年近く経った今、3年ぶりに川越を再訪した自分が驚いたのは、何よりその賑わいである。
見渡す限りの観光客。好天に恵まれた週末とはいえ明らかに人が多い。
土日祝は川越市役所の駐輪場が無料で開放されることを知ったうえでの週末来訪だったのだが、自分は昨今の観光需要の回復を甘く見ていた。
両脇に蔵造りの建物が立ち並ぶ県道の路肩からは、押し合いへし合いしてもつれた観光客の列が大きく膨らんで飛び出してくる。行き交う車両が徐行運転なのは、もはや景観を楽しむためではなく観光客を轢かないためとも思われる混雑具合。自分はやっとのことでカブを駐輪場に停めてから少しの躊躇いを置き、ええいままよと観光客の流れに加わった。
人力車夫の客引きの声に、芋菓子中心の食べ歩きスイーツから漂う甘い匂い。
喜多院のしだれ桜こそ満開なれど、新河岸川の「誉桜」が開花するにはまだ早く川面に舟の姿はない。一周回って感心するほどの人混みは何故かと首を巡らせてみれば、理由は自ずと明らかになった。
そこかしこで祭りが行われているのである。
喜多院慈眼堂の前には縁日の屋台が並び、
熊野川越神社では「春詣」、川越八幡宮では「花手水」が催され、
蓮馨寺境内においては「お花見ワインFes」と称するイベントが行われている。
春祭り――豪華絢爛な山車が共演する川越まつりとは違う、春の訪れを祝う宴。
まだ枝先に数輪を咲かせているだけの桜の樹の下で、老いも若きも、外国人観光客も地元住民も親子連れも、短パンタックトップ姿の男性も和装に着飾った少女たちも――皆一様に春が来たことを寿いで飲めや歌えやしているのだ。
居るだけで気持ちが浮き立つような喧噪に揉まれきった自分は、勧められたワインの試飲をやや悩んだ末に断って、早々に城下町から離脱した。
祭りの活気と人熱だけで十分に酔ってしまえそうな会場を抜け出して向かったのは、観光案内版で知った郊外の自然公園。県内最大の自然沼・伊佐沼でならきっと、城下町よりいくらか心静かに過ごせるだろう。
――果たしてその読みは的中するのだが、今度は極端から極端へ。
沼地の急激な環境変化により2023年に「古代蓮」が全滅した伊佐沼の湖畔には、数えるほどしか人がいなかった。
川越市東部に位置する伊佐沼は、一周2.4kmの大きな河跡湖で、関東では千葉県の印旛沼に次ぐ広さを誇る沼である。
沼の西岸には遊歩道や公園が整備されていて、藤棚の木陰のベンチでは地元住民とみられる男性が開いた文庫本を顔に乗せて微睡んでいた。隣接の農産物直売所では、麗らかな春空に子どもが凧を上げている。
大方の読み通り、のどかな憩いの水辺には違いない――でもどこか寂しい。
その寂しさの出所は閑散とした雰囲気のみから来るものではなく、読売新聞の地方記事で知った伊佐沼の事情による部分も大きい。それと言うのも、夏には古代蓮が咲き誇って見物客を呼ぶ伊佐沼は、まさに昨年度、古代蓮の花がまるで咲かず事実上全滅してしまったという。
全滅の原因は、特定外来生物のアカガメによる食害や、農薬・生活排水による水質汚染、また地球温暖化の影響も受けているとも言われていて、特定はかなり難しい。
1980年代に水質汚染による古代蓮の激減を受け、有志団体の取り組みで繁殖数が増加傾向にあったところに、突然の全滅である。伊佐沼の清掃と古代蓮の栽培に取り組んできた方々の無念は幾許か。その儚さを忍びなく思うと同時に、ままならない自然が持つダイナミズムを垣間見た気がした。
増えれば減りもする。大切に育てても失われる。生きものは必ず死ぬのだ。
投宿する前に、3年前に訪れた川越歴史博物館の前を歩いてみた。
『建物老朽化 館長老朽化 でも おもしろい!』
の立て看板に違わず、サービス精神旺盛な紫髪の老館長の粋な計らいで、戦国武将が使用していた兜や火縄銃を持たせていただいた濃い体験は今でも鮮明に思い出せる。お土産に持たせてもらった錆びた寛永通宝は、館長の名刺の裏にマスキングテープで貼って保管しているくらいである。
そんな博物館の入口には今こんな看板が出ていた。
『博物館内 点検整備の為、休館となって おります。』
にわかに胸がざわついて手元のスマホで調べてみると、公式声明は見当たらないものの、川越歴史博物館は点検整備と館長の体調不良のため2022年度末をもって閉館の運びになった、との検索結果が表示した。
3年前の時点ですでに施設は古びていたし、館長はご高齢だった。閉館は耳を疑うような事態ではない。それなのに、失われるのは寂しい。足繁く通っていたわけでも館長と懇意にしていたわけでもないのに、無くなるとやはり切ない。しかし切ない分だけ、開館当時に巡り合えた縁を尊く思えるのだから不思議なものである。
花の盛りは短い。生きとし生けるものの一生も儚い。
花に嵐の例えもあるように、世の中にはままならない出来事も多い。
人生は祭り。泡沫の夢。自分は今しかないこの一瞬をどれだけ謳歌できるだろう――やっぱり試飲のワインを貰っておけばよかったかな、と淡く後悔したりしながら、自分は夕暮れに染まる城下町に靴音を鳴らしてその日の宿泊地に向かった。