パレオパラドキシアは今からおよそ2000万年~1100万年前の期間に生息していた絶滅哺乳動物で、ずんぐりむっくりした四つ足の巨体はカバに瓜二つだが、幾本もの円柱を束ねたような特徴的な臼歯を持つために束柱目というグループに分類される。
面長な顔に大きな胸部、足の指間には水掻き。分類学上はゾウなどの長鼻目、ジュゴンやマナティーといった海牛目に比較的近いとはいえ、「palaios(太古の)+paradoxus(矛盾した)生物」の名前の通り、その生態は今なお大部分が謎に包まれている。
秩父地域は、このパレオパラドキシアの化石が世界で最も多く発見されている場所だ。
そんな「幻の海獣」であるパレオパラドキシアが発掘された秩父地域の一帯は、今日では「古秩父湾」と呼ばれ、周辺堆積層と発掘化石標本群がまるっと国天然記念物に指定されている。貴重な地質鉱物には違いないが、絶滅動物の化石が天然記念物になっているのは珍しい。そうした事情もあいまって、地質学的に価値ある土地景観を管理・保全・教育するジオパーク秩父は、観光ポスターで「この場所には昔海が広がっていた」と声高々に謳い上げる。
ここで言う『昔』とは、約1700万年~1500万年前の時期のことだ。
地質時代区分のことばを用いるなら新生代中新世のころ、大陸から剥がれるように太平洋側へ移動していった生まれたての日本列島において、関東地域はひとつの島であったという。そんな、今からおよそ1700万年前、現在の秩父盆地の西縁を海岸線として東方に広がっていた海こそが古秩父湾である。
古秩父湾が誕生してから100万年後の、今からおよそ1600万年前には、秩父盆地のみならず日本列島の広範囲が沈降したことがわかっている。このとき古秩父湾は深海となり、生物化石は残さなかったものの、海底砂泥のシマシマ模様をくっきりと地層に描いている。粗い砂粒と細かい砂粒が沈む速度の違いによって生じる、大自然の芸術家が手掛けたその地層はタービダイトと呼ばれる。
それからさらに時を経て、古秩父湾は再び浅瀬に戻る。古秩父湾の東縁が隆起し、それに伴って東西の陸から堆積物が流れ込んできたためである。浅くなった海は多様な生物の楽園になり、まさにこのころ、古秩父湾にはチチブクジラをはじめたくさんの海棲哺乳類が生息していたらしい。
しかしながら楽園の時代は儚く、湾の東縁の隆起は止まらなかった。西陸と隆起した東陸の間にやがて閉じ込められてしまった古秩父湾は、無情にも今からおよそ1500万年前に消滅した。この際に隆起した地域は、今の埼玉県の東部・外秩父山地にあたるという。これら一連の壮大な記憶を誰よりも如実に語るがゆえに、秩父地域の地層と化石は国天然記念物となっている。
この地質学的な昔話の一方で、自分は海なし県の埼玉周遊中に「この場所には昔波の音が届いていた」と主張するものに出会っている。地名に残る「仙波」の地。古刹ひしめく川越でのことである。
これが語る『昔』とは、喜多院が建立される天長7(830)年より前を指す。
川越大師として知られ、江戸城から移築された「徳川家光誕生の間」などが観光客を惹きつける喜多院は、正式には、天台宗 星野山 無量寿寺 喜多院という。喜多院の本堂は慈恵堂(大師堂)と呼ばれるが、そのお堂の額には「潮音殿」と揮毫がされている。
曰くその名は、静かなお堂のなかで耳を澄ませていた古の人々が、潮の満ち引きのようなザザーン、ザザーンという不思議な音を聞いたという出来事に由来する。
また次のような言い伝えもある。
かつて喜多院周辺は見渡す限りの大海原で、どこへ行くにも舟を使っていたような土地であったが、あるとき仙芳仙人という僧侶が法力によって海水を除き、そこに尊像を安置したという。法力を行使する場面に関しては、お寺を建てるために海の主である竜神に願って陸地にしてもらった、とする話さえ伝わっている。ちなみに、この伝説の裏付けの一助たらんとするかのように、喜多院の近くには「小仙波貝塚」という市指定史跡も存在する。
片や、語り手は地層や化石。片や、伝え手は寺院の創建由緒。
現代人の感覚において科学的根拠に乏しく、後年の創作話と一蹴されるのは明らかに後者であろうが、どちらも「ここは昔海だった」と同じ主張に行きつくのは興味深い。
さて繰り返すようだが、古秩父湾が存在したのは、前述の通り今から約1700万年~1500万年前の期間である。それより前はどうだったかと問えば、恐らく湾ではなかったものの、経度と緯度を固定して見た地点としてはそこは「海」だったかもしれないし、大陸から移動してやがて秩父盆地となる小島を目で追い続けていくのならそこは「陸地」であっただろう、と自分は推測する。
当時は今日我々が認識する日本列島の配置と形をしていなかったようだから、まずは同一地点の解釈を一致させるところから問題にせねばならぬが、とにかく、古秩父湾のロマンを語る者にとっては「秩父盆地は昔海だった」のである。
その『昔』が指すのは今からおよそ1000年前でも、1000万年前でも、1400万年前でもない。
比企丘陵の断層に向き合って過去に思いを馳せる学者が言う「昔」は、彼らが研究するピンポイントの時代のことだ。同じ過去でも、明らかに昨日や一昨日のことではない。
思うに、人が「昔」と口にするとき、それはあまりにも個人的で自分本位で趣味嗜好に偏った、しかし当人にとっては軽視することのできない特定の時期を指している。
今少し立ち止まって振り返れば、自分はカブと一緒に埼玉を旅するなかで、多くの優しい人たちからいくつもの素敵な昔話を聞かせてもらってきた。
「昔は伊佐沼だって見渡す限りの古代蓮が咲いてたんだ」
「この家は昔結婚したときに購入したんですよ」
「武甲山は昔はこんな不憫な形じゃなかったのに」
「こういった町銭湯って昔は本当にたくさんあったのよ」
「私も昔はホンダのDioで房総半島までブッ飛ばしたもんよ」
「一昔前までは秩父の山奥にもオオカミがいたんだけどね」
「昔鉄道ひとり旅をした時分には俺もたくさんの良い経験をしたな」
――ところでその『昔』っていつ?
問い始めたらばキリがなく、そしてそれは、きっとひとりひとり違うから意味がある。
皆が任意の「昔」を思い思いに語るから、自分はそこに人生を垣間見ることができていた。
旅行けば自分をぐるりと取り囲む、無数の「昔」。
靴底を滑らせる玉砂利のチャートは、5億年前の古生代カンブリア紀から存在する放散虫のなれ果ての姿だ。あちらの小高い丘はかつて藩主の居城があった場所で、こちらの古寺は幾度の焼失を乗り越えて現在に至る。樹齢1000年のケヤキの巨木は集落の変遷を昔からずっと見下ろしているし、分譲地の足場に残る青竹の痕跡は、わりと近い昔に行われたであろう地鎮祭と、新しい家族がそこに建つ家で暮らす未来を夢想させる。
自分は数えきれない「昔」の一番表層のところに立っていて、今この時も、足元に「昔」を重ね続けている。否が応にも後ろに「昔」を残す存在であるのに、前進するためにあえて自分以外の「昔」に触れたいと思うのは、果たして物好きなのだろうか。そうすることで、もっと人を知ることができるのではないかと、全国各地へ単身スーパーカブを走らせるのはやはりロマンチストだろうか。道楽者には違いないが、歴史好きだとか「温故知新」だなんて言うと格好つけすぎているようでやや恥ずかしい。とりとめのないこの願望を、どんなことばで表そう。
なお、多くの出会いに恵まれたこの埼玉の旅路では、県央・東部エリアを通っておらず、見識の不十分は何卒ご容赦いただきたい。ツーリング行程において当該エリアを除外した理由は単純に予定が合わなかったというのと、実はもうひとつある。
まあ、なんてことはない――そこは昔に訪れたことがあるからだ。
■埼玉県で訪れたスポット(宿泊地・飲食店・スーパー等除く)
| NO | SPOT |
|---|---|
| 1 | 川越市街 時の鐘、菓子屋横丁など |
| 2 | 川越大師 喜多院 |
| 3 | 川越氷川神社 |
| 4 | 三芳野神社 |
| 5 | 蓮馨寺 |
| 6 | 伊佐沼 |
| 7 | 秩父市街 |
| 8 | 秩父神社 |
| 9 | 芝桜の丘 羊山公園 |
| 10 | 武甲山資料館 |
| 11 | 両神温泉薬師の湯 |
| 12 | クラブ湯 |
| 13 | 龍勢会館 |
| 14 | 三峰神社、三峰ビジターセンター |
| 15 | 長瀞 岩畳 |
| 16 | 宝登山神社 |
| 17 | 埼玉県立自然の博物館 |
| 18 | 埼玉県の道の駅 計12駅 |