居酒屋に宿泊処が併設されていたら、どれだけ飲んでも階上の寝床で寝るだけだ。
宴も酣のなかタクシーを呼ぶ必要も、終電後に千鳥足で帰路につく必要もない。
――天才的な発想だと思わないか?
これを実践している前衛的なお宿が富岡製糸場の徒歩圏内にある。
かつて金属加工工場の代表を務めていたという、民宿のオーナーにして居酒屋の女将である「すみちゃん」は、えいやと会社員を辞めて旅に出た自分に寄り添うように、自らの経緯を振り返って「自分でも思い切った方向転換だと思う」と告げた。
すみさんの経営する居酒屋兼民宿は、昔ながらのスナックや飲み屋街が集まる二町通りのちょうど真ん中にある。建物の2階部分が1組貸しの民宿で、1階の居酒屋の隣にはスナックも併設されているため、食べて+飲んで+歌って→眠るの一連のコンボを決めることができる夢のような造りだ。
日中、路地をふらりと歩けば感じるのだが、世界遺産に登録されている富岡製糸場の周辺は驚くほどレトロで物静かである。要するに街の建物が古く、また廃業した店舗も少なくないためどこか閑散とした印象が拭えないのだ。すみさんはそんな富岡の街を盛り上げるために、キッチンカーやライブ奏者を集めて月一で小さなイベントを開催している活動的な女性である。ちなみにそのイベントは週末の日曜で14回目を迎える。
時刻はまだ西空が薄明るい18:00。観光地的な賑わいがやや控えめな富岡の街で、1階居酒屋の6席のカウンターのひとつに座ってビールをいただいていたら、居酒屋の引き戸ががらりと開いて常連客の男性が現れた。
思わず彼に会釈してしまったために、男性は自分を「いつかお酒を奢った娘だろうか」と勘違いしたらしい。ボトルキープのウィスキーを開けながらその男性こと坂口さんはそう話し、一口呑むごとに饒舌になって色々を語ってくれた。
坂口さんは下仁田で大工の棟梁をしており、その日は木曽ヒノキの市場に用事があって長野まで出掛けていたという。坂口さんは、自分が旅の途中にあると知ると否や多くのアドバイスを与えてくれた。そして酔いが回ると「シャバで飲む酒はうまい」とぼやいて機嫌良く短いメロディーを口遊んだ。有名な深夜お色気番組「11PM」のテーマ曲だと、坂口さんはもはや聞かずとも教えてくれる。
そのうえ坂口さんは参ったなという顔をして、
「俺、お酒を飲むと酔っちゃう癖があるんだよな」
……大抵の人はそうである。
日中は棟梁として仕事に精を出す立派な職業人も、仕事終わりの居酒屋ではシャバダバシャバダバしてしまう。それが富岡の夜の顔だ。
初見の旅人に景気よくご馳走してくださった坂口さんのご機嫌な提案で、我々は2軒目への梯子酒をきめた。すみさんは居酒屋の提灯を消して割烹着を脱ぎ、自分は、
「まだ頂戴した焼き鳥を1本食べ終えていないのですが……」
「もったいないから持っていきな!」
ということで食べ歩きよろしくつくね串を手に、居酒屋から徒歩3分の寿司屋へ向かった。
到着したのは雰囲気のよい回らないお寿司屋さんで、そこではすでに先客がひとり静かに鮨を嗜んでいたが、坂口さんは半ば強引に大将を呼びつけて自分を紹介してくれた。
やがて、カウンターの端にいた寡黙な先客も我々の騒々しさに釣られたのか、仕事の関係ではるばる沖縄からやってきたのだと話し出した。
初対面同士が地元の方に交じって言葉を交わし、愚痴を聞いたり冗談を言い合ったりする。間にあるのは酒と肴。日中であれば会話する機会さえない人たちがこんなに自然に接近する。これも富岡の夜の顔だ。
夜も更けて、すみさん、坂口さん、翌日沖縄に戻る男性はそれぞれタクシーの送迎で帰っていったが、彼らを迎えに来た運転手もどうやら皆顔見知りらしく気安い関係が伺えた。当然のことながら自分もしっかり飲んでいるわけだが、今宵の宿は徒歩3分の居酒屋の2階。ひんやり気持ちいい夜風を浴びて民宿に戻り、ごろりと布団に寝転がる。
階下のスナックからエコー強めのカラオケの子守歌が響いてくる。
知らない曲のため上手なのか下手なのか判断がつかないが、気持ちよく歌っていることだけはわかった。酩酊した頭でぼんやりとそれを聞いているうちにいつの間にか眠っていた。
翌朝、もとより夜型の人間が早起きなどできるはずもなく、自分は十分に日が昇ったころにもぞもぞと布団を這い出して富岡市内を観光した。
そして市内散策を終えて民宿に戻ってくると、1階の居酒屋には数組の先客がいた。
暖簾の向こうからすみさんが「おかえり」と迎えてくれるものだから、2階の民宿に荷物を置き、急な階段をばたばたと降りて改めて正面から居酒屋に入る。
時刻はやはり18:00前。宵口にも関わらずすでに何杯か飲んでいる様子の男女は、聞けばカイコに食べさせる桑を育てている桑苗家のご夫婦で、育てた桑は宮内庁にも献上しており、美智子上皇后陛下にもお会いしたことがあるらしい。
桑について今にも語り出そうとするご主人を「長くなるんだからやめて」とドライに嗜めた奥様は、やがて隣の席に腰掛けた見ず知らずの自分に、
「実は今日は結婚記念日なの」
と、どこか恥ずかしげに囁いた。
そんなハレの日なので、今日は桑の仕事は早上がりし、ご主人行きつけの居酒屋で一杯やってその後別の店へ移動する予定らしい。要するにこの場での生ビールは記念日ディナーの前菜だ。桑を語りたい欲が溢れて他の客に絡み出したご主人を余所に、自分は奥様とグラスを打ち合わせてささやかな祝福を贈った。
二人は結婚して何年目なのかと問えば、
「なんと42年。自分でもびっくりよ」
奥様はまだ1軒目とは思えない仕上がりのご主人を横目に、からからと笑った。
平日金曜の夜だったためか、その日の居酒屋は常に満席状態だった。
福岡から仕事で富岡に来ていた男性。釣りが趣味の彼はカウンターの一番遠い席からスマホを廻し、イセエビを餌にして釣ったヒラメの写真を見せてくれた。
何らかの前社長でありながら作業着が似合う「じゅんちゃん」。すみさんと同じ「純」の漢字を名に持つ辛口の彼は、桑苗家のご主人と共同でウィスキーのボトルキープをしていた。
新宿伊勢丹で展示会をしている陶芸家の芳宣(ホウセン)さん。
そして、前日に引き続きひょっこりと居酒屋に現れた坂口さん。
決して広くない店内にぎゅうぎゅうに詰まった、地元の常連客と他県からの一見さん。四方八方で飛び交う自慢と愚痴。心地よく耳に響くのは、グラスに酒を注ぐ音、串の鶏肉が焼ける音。群馬テレビの地元ニュースがタイミングよく話題を提供して発言を促す。カウンターの向こうのすみさんは料理の手を忙しく動かしながらも、ほうぼうの会話に最適な相槌を投げかけていた。
どなたからの差し入れか知れない長井屋饅頭さえ酒のアテに、誰も彼もが昼間の職業人の殻を脱ぎ捨て、老いも若きも素顔を晒し合って盃を交わす。
これが、世界遺産に登録され観光地として全国に名を馳せてもなお、街並みにどこか心寂しい印象が漂う官営模範工場のお膝元・富岡――の夜の顔。
酔いが回ってシャバダバしてきた坂口さんが、
「俺、お酒を飲むと酔っちゃう癖があるんだよな」とぼやくのに、
「大抵そうだろ!」
間髪入れずそうツッコんだのは誰だったろう。
(まさか最年少の自分ではなかったと信じたい)
もはやそれすら思い出せないが、富岡の居酒屋に泊まったあの夜の賑やかさは、酩酊してやわらかく歪んだ景色のようにじわりと網膜に残っている。