草津湯ノ沢、重監房に寄す

 恥ずかしながら、自分は長らく『湯治』というものを「仕事や家事の合間に赴く一日二日の温泉旅行で、お湯に浸かって疲れた心身をリフレッシュする」ことだと思っていた*。
 だから、過去には心から病気平癒を望んで湯治場に訪れていた人たちがいて、湯治客が長期滞在する集落まであったことなど、まるで知らなかった。
 そんな浅学な身ゆえに、草津には今日まで続くハンセン病患者の療養所があり、かつてはそこに差別と偏見に満ちた懲罰施設が存在していたことなんて、微塵も知らなかった。

 ・・・

 「恋の病以外効かぬ病は無い」や「万病に吉」と言い伝えられる草津温泉は、日本三名泉の一つとして古くから多くの湯治客が訪れる土地である。
 湯もみや時間湯を採用するほどの熱い源泉は、pH値にして2.1という日本有数の酸性度と殺菌作用を誇り、とりわけ皮膚病に効くとされてきた。草津の強い酸性の湯は金属やコンクリートをも溶かすため、人肌の垢などあっと言う間に落としてしまう。ゆえに公衆浴場には石鹸やボディソープなどはなく、皆が熱い湯に無言で浸かって短時間で上がるという癒しやリラックスとは程遠い入浴が体験できる。

 と、少し温泉について書いてみるものの、今日の草津温泉はもっぱらアミューズメントに満ちた観光地である。
 国道292号線の道半ば、標高1,000m以上の山間部にして車以外のアクセスに難があるため、観光客の受け入れにバスが活躍している草津温泉街。毎分4,000Lが湧き出す湯畑を中心に、今では若者や訪日外国人向けの小綺麗なカフェや漫画図書館が設けられ、湯もみのショーや夜間周辺ライトアップといった催しが訪れる人を喜ばせている。その群衆のなかに“ガチの病人”はあまりいない。
 3階建てのバスターミナルには観光案内所が設けられ、そこでは草津節にある「草津よいとこ一度はおいで」の期待感をさらに高めてくれるさまざまな観光情報を得ることができるのだが、古ぼけた周辺マップを見れば、ここ草津温泉にも一つ異質な施設が存在する(最近の作成のお洒落な温泉街マップには掲載されていない)。

 厚生労働省が設置した国立の資料館。
 かつてハンセン病患者の懲罰用の建物として草津につくられた重監房について語り継ぐ、入館無料の見学施設、重監房資料館である。

 ・・・

「重監房」という聞き慣れない単語の前に「ハンセン病」について触れておきたい。 
 ハンセン病は、らい菌に感染することで起こる病気である。
 現代においては感染することも発病することもほとんどないが、発症すると、皮疹や知覚麻痺といった症状が現れる病気だ。治療薬がない時代には、体の一部が変形するなどの後遺症が残ったため、ハンセン病患者は主に外見を理由に忌み嫌われ、社会から隔離・排斥されてきた歴史を持つ。

 万病、とりわけ皮膚病に効能があるとされる草津温泉には、明治時代より多くのハンセン病患者が湯治に訪れていた。そして集まったハンセン病患者たちは湯之沢部落と呼ばれる集落を形成し、初めこそ草津温泉の一般客と混浴で治療に専念していた。
 しかし、全ハンセン病患者の隔離を目指した1931年の「癩予防法」の成立や、ハンセン病患者を見つけ次第療養所に送り込む「無癩県運動」施策の高まりを受け、やがて集落は解散。患者の多くは湯畑付近の部落から離れ、国が隔離政策の受け皿として設立した療養所・現在の国立療養所栗生楽泉園へ移転していった。

 これらの政策の大元には、ハンセン病を恐ろしい伝染病と考えていた当時の認識がある。
 感染拡大を抑える目的でまず行われたのは、放浪患者の療養所への強制収容。
 その施策は次第に、自宅療養をしていたハンセン病患者のところへも派生していった。保健所職員や警察官が患者宅を訪れて徹底消毒、患者は有無を言わさず療養所へ送還――といった見せしめのようなやり口も手伝って、ハンセン病患者はいよいよ迫害され、その家族もまた差別や偏見の対象となっていった経緯がある。

 そんな強制的な隔離政策により、療養所では患者の逃亡や反抗が頻繁に発生した。
 そのためハンセン病療養所には各々「監房」と呼ばれる監禁所が作られており、なかでも栗生楽泉園の敷地内にあった監房は、他の特別病室よりも重い罰を与えたという意味で「重監房(特別病室)」と呼ばれていた。
 1938年から1947年まで9年間使われていた重監房では、特に反抗的とされた93名のハンセン病患者が収監され、うち23名が獄中で亡くなっている。特別病室とは名ばかり。そこでは患者への治療は行われず、収監された患者たちは人権を完全に無視した過酷な独房に置かれて寿命を縮め、獄死していったのだ。
 
「重監房の実寸大部分再現エリアがあるので見ていってくださいね」

 と学芸員の女性に勧められ、自分は資料館内に再現された独房を見学してみたが、およそ人が居られる空間ではない絶望感に耐えられず小走りで出てきてしまった。

 重監房の、高さ4.5mのコンクリート塀で囲われた独房一室の広さは四畳半程度。電灯は下がっていたが電源がなく、壁に小さな採光窓の穴と食事の差入口があるだけの、震え上がるほどに暗く孤独な部屋だった。
 差入口から患者に与えられたのは、弁当箱に詰めたわずかな麦飯と具なしの味噌汁や白湯のみ。それも減食刑で1日2回の配給だったそうだ。
 なお医師も看護師も関与を忌避した療養所敷地内において、重監房への食事運搬は主に入所者が担っており、重監房に入れられずとも、患者の大半はまともな治療を受けられていなかったことが伺い知れる。重症者の看護に介護、土木工事に雪かき、加えて冬は-20度になることもあった独房で凍死した患者を運び出す作業さえも、入所者のハンセン病患者たちにさせていたというから驚愕である。
 ちなみに当の重監房は、現在では基礎部分が残るのみで往時の運用などに関しては不明点が多い(後年になって調査が入る折、都合の悪いものを隠蔽するように即時解体されたという)。

 本来であれば治療を受けて庇護されるべきハンセン病患者に、どうしてここまで惨い仕打ちができたのか。
 これについて資料館は「ハンセン病という『病気』ではなく、『患者』そのものを撲滅しようとした国の施策や社会運動が大きかった」と主張する。ある病気を理由に、当人の人権を剥奪することも厭わない思想を国が認め、大勢の国民が支持した時代。一般の刑務所があったにも関わらずハンセン病患者専用の重監房を特別に設けたのも、ハンセン病患者への、人を人と思わない極端な差別意識によるものだったのではないかと、館内展示が声もなく告げていた。

「癩予防法」を引き継いだ「らい予防法」は1996年にようやく廃止され、1998年には国のハンセン病政策の責任を問う提訴がされて入所者側が勝訴しているが、ハンセン病患者や社会復帰者、その家族に対する偏見や差別は今なお残っているという。

 偏見や差別を取り払い、人権が尊重される社会を実現するにはどうすればよいのか。
 ハンセン病患者にしてきたこの過ちを繰り返さないために私たちは何ができるのか。
 そんな問いかけに、ふと直近のウイルス禍を思い出す。
 新型コロナウイルス感染が拡大した時分に巻き起こった、医療従事者への差別や偏見、マスク非着用者とのいざこざ。緊急事態宣言下では他県ナンバーの車に石が投げられ、多くの感染者を出したクルーズ船乗客や飲食店・大学サークルなどへは誹謗中傷が殺到した。
 国が「行動自粛」を掲げ、マスコミやSNSが恐怖を扇動し、感染を恐れて他人をいとも簡単に蔑ろにしてみせた自分たちの残酷さは記憶に新しい。

 余談だが、この日草津温泉街でこのようなチラシをいただいた。
 目と鼻の先に存在した重監房で起こった、顔を覆いたくなるような陰惨な過去の出来事を、自分たちは未来に活かすことができるだろうか。コロナ禍では活かせていただろうか。
 少なくとも、知らなければ考えることすらできない。
 自分はきっと、もっと、知らなくてはいけないのだ。