泥底より出でて水底に沈む

 かの場所は吾妻郡長野原町。
 草津から国道292号線に乗ってわずかに南下すれば吾妻渓谷に至る。
 渓谷を東西に横切る国道145号線はJR吾妻線に並んでおり、それは群馬と長野の県境に位置する鳥居峠の辺りからはじまりやがて利根川に合流する吾妻川に並走している。吾妻川の中流部に設けられた人造湖では、水陸両用バスや湖上カヌーといったアクティビティを楽しむことができ、湖を眺めながらのキャンプやBBQもまた一興。不動大橋の手前でカブを停めて見れば、湖畔に佇む道の駅も盛況の様子であった。
 水流を留め、人足をも留めるその吾妻渓谷の中心にあるのは、2020年に完成したばかりの八ッ場ダムである。

 八ッ場ダムは、吾妻川の流水機能を正常に維持する役割のほか、洪水の調節・水道及び工業用水の確保・水力発電などを目的に建設された多目的ダムだ。
 1947年の大型台風カスリーンによる河川の氾濫で関東1都5県に甚大な被害が出たことをきっかけに、防災のために立案されたダムのひとつであり、水の供給においても主に首都圏の生活を支えるために稼働しているダムである。
 全国各地のダム建設の例に漏れず、地元住民の反対運動や社会情勢による計画変更といった数多の問題を対処し、最初の計画から68年をかけてようやく完成した八ッ場ダムには、日本のダム史上最高額となる約5320億円の事業費が費やされているという。

 長野原町では、八ッ場ダムの建設工事に伴い、大規模な発掘調査が行われた。
 調査区域は吾妻川沿いを中心とした約100万㎡。調査期間は1994年から2019年にかけての26年間に及ぶ。今は水の底にあるその調査区域からは、縄文時代から江戸時代までの遺跡が折り重なるように見つかり、とりわけ地域的特色を持つものとして、1783(天明3)年の浅間山の噴火により発生した「天明泥流」に埋没した村落が発見されている。
 発掘された出土品や調査結果は、コロナ禍の真っ最中であった2021年に開館したやんば天明泥流ミュージアムで見学することができる。

 道の駅 八ッ場ふるさと館からバイクで2分の至近距離にありながら、やや駐車場を持て余しているやんば天明泥流ミュージアムは、開館以降の運営母体は長野原町である。
 剽軽な山容の丸岩を背景にするモダンな建物に足を踏み入れれば、自動券売機でチケットを購入するタイミングから、作業着姿のミュージアムサポーターが付きっきりで案内してくれる。来館者が少ない日であったからだろうが、シアタールームで天明泥流に関する導入映像を鑑賞した後も、1対1で展示内容を解説してくれる親切さである。
(ところで最近の博物館・資料館は、入館後にまずシアターで映像を見させる展示方法が多い気がする。直近で訪れた徳富蘆花記念文学館や重監房資料館もそうだった。館内見学前に事前知識を叩き込む手法に文句はないが、上映時間が長いとちょっとビビる)

 前提知識として、泥流とは、水分を多量に含んだ土砂や火山噴出物が地表を流れる現象のことをいう。
 そしてここでいう「天明泥流」とは、1783(天明3)年8月5日に起こった浅間山北麓の大爆発による土石なだれが吾妻川に流れ込み、泥流となって流域一帯を流れ下った天災を指す。泥流は利根川を下って千葉の銚子港にまで至り、浅間山北麓と吾妻川・利根川沿いを併せて死者は1,500名以上、被害家屋は2,000軒以上にもなったそうだ。
 やんば天明泥流ミュージアムで展示しているのは、まさに泥流に飲み込まれた不遇なエリアの出土品だが、川幅極めて狭い渓谷付近の村落では、幸運なことに住民の多くが逃げおおせた地区もあったらしい。

「当時不動院というお寺にいて、間一髪泥流から逃げ延びた和尚さんが『天明泥流は上流ではなく下流から襲ってきた』と話した記録もあるんですよ。渓谷で一度泥流がせき止められて、その逆流が村を襲ってきたからそこの村人は避難する時間があった」

 怒涛の勢いを不意に止められた泥流は、ほんの少しだけ勢いを落として逆流し、上流からの泥流が直撃しなかった村落を泥で埋めた。それゆえに、いくつかの調査地域で発見された家屋や畑、村人が使用していた日用品類は大破を免れており、驚くほど良好な状態のまま残存している。
 例えば、江戸時代の村人が梅干しを漬けていた木製の桶が発掘されている。
 二本の箍で締められた桶は側板に破損さえなく、まるで昨日まで使用していたかのような美しさで出土している。促されるままに覗いてみれば、桶の底には梅の種まで視認することができた。
 陶磁器の皿に、お歯黒の道具。刻みタバコを残したまま放置されたキセルに加え、土間に散らかった草履や下駄が、緊急事態を偲ばせる。どれもこれもが、当時の人々の生活を知ることができる貴重な資料。状態の良さはひとえに泥に埋もれていたためであろう。水面下でもなければ外気に晒され続けたわけでもない、泥の中で真空パックのような状態にされていたからこその保存状態である。

 泥よりもさらに深い層からは縄文時代の土器なども発掘されており、それらの特徴から、八ッ場の地は古くから信濃・東北との交流があったことがわかっている。父親の年齢に近いミュージアムサポーターの男性は、自分がカブで日本周遊中の身であることを知ると、地方ごとの縄文土器の模様の特徴を細かく教えてくれた。
 男性は「この先、よその博物館で縄文土器を見る機会があったら思い出してみてくださいね」とお茶目に笑い、他にもたくさんの埋蔵遺物を紹介してくれた。
 その傍ら、「天明泥流ミュージアムの開館時は結構慌ただしかったんですよ。ほら、この博物館はダム関連事業だから期限があったし、そこにコロナも直撃して……」と遠い目をして呟いてみせるものだから、自分は公営事業と歴史研究のままならない関係を薄く悟った。
 八ッ場ダムに沈む区域は、そうと決まったために大規模な発掘調査が許された場所でもある。公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団と町教育委員会が主体となったこの遺跡発掘調査には、個々の学者や民間企業では到底叶えられない規模の予算が投入されている。長野原町にダム建設の白羽の矢が立たなかったら、結果的に、これほどまでの歴史資料は得られなかったに違いない。
 
 端から水の中に沈める前提で、泥の中から掬い上げた歴史。
 縄文時代から江戸時代の記憶――天明の浅間山噴火時に吾妻渓谷で営まれていた村落は、泥底より出でて水底に沈んでいった。