■2024.5.10-17 @群馬県利根郡みなかみ町
これまでの旅の紆余曲折に刺激を受け、腰を据えて文章を書きたくなった反動とはいえ、元郷土資料館の2階を改装したゲストハウス『ほとり』には、結果的に一週間も滞在してしまっている。
魔の山と呼ばれる谷川岳を間近に望むみなかみ町は、利根川がもたらす峡谷美やキャニオニング体験などといった観光資源を併せ持ち、加えてみなかみ18湯と称される温泉も点在している。そこには長期滞在を希望してしまうほどの魅力と素敵な出会いがあり、それだけ、忘れ難い思い出も多い。
だがこれも皆、ゲストハウス代表のたみーの計らいによるものだ。
ゲストハウス&コワーキングスペース『ほとり』の共同代表の一人であるたみーは、ITエンジニアとしてリモートワークをしながら施設の管理運営・地域活性化に取り組む、バイタリティ溢れる女性である。しかし他人に対してその活力の押し付けは皆無で、語り口は穏やか。年齢は自分よりいくらか先輩で、化粧気のない素朴なスタイルが心地よい人物だ。
自身も車一台で日本全国を巡ってみなかみ町に定住したたみーは、数少ない長期滞在者の自分と短い会話を終えたその晩に、
『今、隣のビール屋さんで犬の面倒をみているので一緒にどうですか?』
という趣旨のメールをくれた。
書きぶりから察される通りたみーが飼っている犬ではない……誰の犬だ?
ゲストハウス隣の醸造所で盛り上がるご近所さんと外国人観光客に挨拶し、たみーと犬と横並びになって月夜の温泉街を散歩する。
バーニーズという犬種にあたる大型犬のニコは、どうやら上毛高原駅で飲食店を始めたご夫婦のワンちゃんらしく、夫婦が帰宅するまではたみーら地域住民が皆で面倒を見ているらしかった。良くも悪くも小規模な街ならではの繋がりである。
翌夜は音楽家のスネオヘアーさんが営むカレー屋で、常連客の方からグローバルウイスキーのコンセプト8を頂戴し、一期一会の出会いに乾杯した。別のイタリアンレストランで食べた地元の舞茸ピザや、地域のママが営むパン屋のトーストセットも絶品。自分は美食家ではないが、みなかみに旨いものありと自信を持って言える。
滞在中は、コワーキングスペースを併設している『ほとり』に作業目的で訪れる人とも連れ立って食事に出掛け、無人販売の餃子で全国的に有名なお食事処・雪松本店では、意気投合したお兄さんこと長士郎さんに御馳走になった。
長士郎さんは現業の建築屋の傍ら、木材を蒸留してエッセンシャルオイルを抽出する調香師をやっている男性である。その発端も「仕事のストレスで眠れなくなったときに『香り』の力を知ったから」であるので切実だ。目に見えずとも確実に脳と体に作用する香り。香りの奥深さを語る長士郎さんは真剣で、繊細ながら芯の強い印象を受けた。
たみーと長四郎さんと餃子皿を囲んで、それぞれの目標を小声で語る。
「旅をしながら物語を書く小説家になれたらな」という酩酊した自分の恥ずかしいぼやきを、二人は優しく笑って聞いてくれた。
徒歩圏内の公共浴場でのぼせて地元のご婦人にご迷惑をお掛けしたり、利根川沿いを歩いてラフティングボートの子供達に手を振ったり、差し入れのイワナの塩焼きを昼食にしたり、谷川岳インフォメーションセンターでヒバ材から抽出された香料を嗅いだりして、
「ちょうど先日ある男性から『香り』の話を聞いたばかりなんです」
と話してみると、谷川岳の植生に詳しい案内スタッフのおばさまは、
「ああ、長士郎くんでしょ!」と悩む間もなくズバリ言い当てた。
コワーキングスペースで何度も顔を合わせる長士郎さんにそれを伝えると、
「……みなかみは狭い町ですから」と、どこか寂しげな口調で言うのだった。
あくる日、『このあと畑に行くんですが一緒に来ませんか?』
たみーからお誘いをいただいた。
なお温泉街に畑はなく、畑で何をするのかの説明もない……というか誰の畑だ?
とはいえ面白そうな予感に抗えない性分の自分は、たみーの軽自動車に付き従ってやがてパノラマビューの私有地に降り立った。そこではすでに農作業帽を被った女性が一人、慣れた手つきで畑の雑草を抜いており、彼女はたみーと自分の到着を待って排除すべき雑草の解説をしてくれた。
ユミコさんと呼ばれる彼女が何者なのか判然としないまま、たみーから軍手と長靴を借りてスギナを毟り取る。状況から推測するに、その畑はユミコさんが無農薬栽培している花卉果物の栽培畑で、ゆえに生い茂る草花のうちブルーベリーや苺の苗を抜くのはNGだった。
畑仕事の終了は日暮れ前。草むしりが楽しくなってきたころにユミコさんが戦線離脱したため、我々は折を見計らって畑の隅にビーツの種を無断で蒔いた。
突然とはいえ、飾らないからこそ貴重なありのままの農業体験。
軍手と長靴を返却してお礼を告げようとすると、たみーはこう言った。
『今晩、長士郎さんのお家で餃子かピザをする予定なんですが、一緒にどうですか?』
「長士郎さんの家は本当に山の中だから」というたみーの助言に従ってバイク移動を諦め、たみーの軽自動車で明かりひとつない山道を行けば、浄水槽からお手製であるという超自然派の邸宅、兼、間伐材が所狭しと並ぶ大工さんの作業場に到着した。
山暮らしのこだわりが凝縮された家屋内には、棟梁と思われるお父様、お風呂上がりの格好をした長士郎さん、犬のブンタ君に猫のヒメちゃん、そして「ユミコさん」がいた……というか長士郎さんのお母様だったのか。説明がないのには慣れたがめくるめく展開に目が回りそうだ。
ちなみに「餃子かピザ」は正しくは「餃子とピザ」だった。
長士郎さんファミリーの自家製ベーコンをふんだんに使用したピザと、今そこで取れた筍を豪快に割って溢れんばかりに包んだ手作り餃子は、この旅で口にして最もおいしかったもののひとつである。
料理上手なたみーの焼き加減は再現不能だし、副菜の蕨のおひたしは家庭の味付けだし、機嫌よくいただいた白ワインは銘柄不明。だけど、あの日・あの場所で・あの人達と囲んだ食卓の愉しさが「おいしかった」という感想に帰結する。
残念だが料理と食事風景の写真はない。
人間は本当に幸せな瞬間に、わざわざカメラのレンズを通して世界を見るようなことはしないからだ。あの幸福な光景は自分の網膜以外には映らず、一生共有はできない。その独り占めがもどかしくも誇らしいのだから、感情とはつくづく不思議なものである。
一週間の滞在の終わりに、長士郎さんが『ほとり』を頻繁に訪れる理由を初めて知った。
ゲストハウス&コワーキングスペース『ほとり』が2階を利用しているビルの1階には、過去にドライフラワーの店舗が居を構えていたそうだが、自分が訪問したときにはそこはすでに空っぽのコンクリート壁を晒していた。
聞けば、その空きスペースを『ほとり』で借り上げ、新たなコミュニティスペースを立ち上げる計画があるらしい。たみー曰く、カフェや講演会にも利用可能な憩いの場が理想的。建築設計はその道に詳しい長士郎さんだ。
みなかみを「新しい遊びが少なくて噂がすぐに広まる小さい町」と自虐する長士郎さんは、繊細そうに見えてその実強い、澄んだ瞳を輝かせてこう言ってくれた。
「いつか小説家になったらここで講演会やりませんか。きっと、皆、楽しいです」
ゲストハウス関連の新たな施策としてクラウドファンディングに挑戦するというたみーとも将来の再会を約束し、自分は馴染み始めていたみなかみ町に別れを告げた。
旅の中で何かを誓うことなど想像もしていなかったが、今はただ書こう、そう思った。
■2024.5.18-19 @群馬県沼田市
関越自動車道・沼田ICにほど近い個人経営の美容室で、その昔ハーレーダビッドソンなどの大型ツアラーを乗り回していたという男性に伸びた髪を切ってもらった。
今でこそ教習所に通って取得することが可能な「大型自動二輪免許」だが、かつては自治体試験場での一発試験、あるいは中型限定自動二輪の限定解除試験を突破する方法でしか取得できなかったのだと雑談で知る。
そんな狭き門を潜り抜けてきた誇り高き戦士として大型バイクに跨っていた彼は、ステータスを失うと同時にライダーを辞めてしまったが、
「前髪どうします? 日常生活ではちょっと短くても、ツーリング後だとヘルメットで押さえつけられてたからちょうどいい長さ、って塩梅があるじゃないですか」
と、バイク乗りの悩みを的確に拾い上げてくれた。
「昭和村の農道とかもう走りました? ひたすらに広くてまっすぐで、たまに信号と農耕車が現れるあの道はほとんど北海道ですよ」
ハーレー乗りだった若き日々に仲間と全国をツーリングした彼がそう言うのだから、昭和村を通過した自分はもはや北海道を走ってきたと言っても過言ではない……いや、きっと大いに過言である。さっぱりと軽くなった頭でもそれだけは何となくわかった。
>③へ続く