【群馬の道程】雷と空風、義理人情

 雷と空風 義理人情――群馬県の郷土遊戯のひとつ・上毛かるたの「ら」札の文句である。
 
 上毛かるたは、1947(昭和22)年に発行された群馬特有の郷土かるただ。
 お土産品の説明書きによればSOUL OF GUNMA。上毛とは群馬県の古名であり、群馬県の名所旧跡・自然・著名人・産業・特産品が詠み込まれたその内容は、群馬県民に長く親しまれている。
 一説によれば、群馬県民の多くは幼年期に読札の暗記を強いられ、さらに意欲ある者は年一回開催される上毛かるた(JMK)県競技大会に参加したりもするという。良くも悪くも、群馬で生まれ育てばエンカウント不可避の身近な発想。それが上毛かるたであるらしい。

「未来を担う子どもたちに希望を与える、明るくて楽しいもの」というコンセプトで考案された上毛かるたは、敗戦後、GHQの指令によって地理・歴史の授業が廃止された情勢下でつくられたものである。そのため、七五調の各文句からも察されるように、上毛かるたは愛国心――マイルドに表すなら郷土愛を興させる役目もまた少なからず担って産声を上げている。
 上毛かるたの中には、そんな背景が視覚的に顕著な札が2枚ある。
 全44枚ある札のうち、ただ2つだけ紙面が赤く染められている「い」と「ら」の読札。
 上毛かるたの「い」の札――伊香保温泉 日本の名湯――は、日本という単語を堂々と用いたいろは順の最初の1枚目だから、この読札を赤く染めた理由は素人目にも明らかだ。
 それでは「ら」の札はなぜ赤いのかというと、次のような事情があったとされている。

 一般公募された題材をもって編纂された上毛かるたにおいて、かるたに詠み込む人物として大衆の人気を集めたものの、GHQの判断により採用が叶わなかった偉人達があった。
 それは例えば、江戸時代の武士で挙げてみるなら、尊王思想家の『高山彦九郎』、遣米後に横須賀製鉄所を設立した『小栗上野介』、天保の大飢饉で農民を救済したと伝わる博徒『国定忠治』。彼らはそれぞれ帝国主義的、軍国主義的、反社会的だと判断されてかるたへの掲載を禁止されたという。
 こうした経緯により、偉大なる上州人らの魂はひとまず「ら」札の『義理人情』という四文字に込められた。そしてその際、強硬なGHQの判断に対する精一杯の対抗として「ら」の読札を赤く染めたと言われている。
 夏の落雷と、冬から春にかけて吹く強烈なからっ風は群馬県の地形が生んだ上州名物。絵札に描かれたものものしい風神・雷神は、そんな気候の描写であるとともに、GHQへの反抗心としての鬼面だと主張する説もある。

 上毛かるたを箱にしまうときは、そんな「い」の絵札と赤い読札、「ら」の絵札と赤い読札、の計4枚が上下格子に並ぶようにする。
 しかし「ら」札は、いろは順の都合で44枚のちょうど真ん中にはあたらない。そのため、両の山札の高さが揃うように他札の順番を一部故意に入れ替えて、半ば無理やりに「ら」札をに出す暗黙のルールが存在する(ひ・せ札をい札の山の最後尾に加える)。
 自分はここに、上州人の意思の固さを垣間見る。
 頑固というか強気というか。艱難辛苦をじっと耐え忍ぶ気概がある一方で、アウトローとまでは言わないまでも反骨精神逞しい。思い通りに行かなくたって、負けっぱなしじゃ終わらない。転んでもただでは起きない。群馬の人は強いのだ――これは、群馬の道程で幾度となく感じたことでもある。

 峨々たる名峰がそびえる群馬の風土は、夏は所により連日猛暑日となり、冬は所により-20℃にもなる極端な気候。人は古来より厳しい環境と折り合って暮らしてきた。実際にカブで走ってみれば、上毛三山の頂上には5月になっても雪が残っていたし、かつて草津に置かれた重監房で越冬を余儀なくされたハンセン病患者に想いを巡らせれば、凍えるような心地がした。

 県土を南北に流れる利根川は「坂東太郎(東国一の大河)」の名を持つ暴れ川。その支流の吾妻川は、首都圏の治水を見据え、八ッ場ダム建設の白羽の矢が立った場所であった。昔から養蚕が行われていたのをいいことに、明治期に巨大な製糸工場が設立されたのは富岡の城下街。どちらも地域外の人間の決定によって進められた事業なのに、今日日それを観光資源として活用しようと奮闘する地域住民の姿勢は、何とはなしに健気に映った。

 群馬名産のこんにゃくは、驚くほど手間のかかる工程を経てようやく食用になる代物。収穫までに3~4年を要するという難儀なこんにゃく芋栽培を続けてきた歴史の裏には、火山灰性の土壌と山地の傾斜が稲作に適していなかったという切実な事情がある。
 そして、この群馬の火山に関連して、自分を驚愕させた〝強い群馬〟のエピソードがもうひとつ。
 時は1783(天明3)年。浅間山の噴火により、関東一円が甚大な被害に遭った過酷な時代に、鎌原村という小さな集落が辿った歴史について、ここに短く記しておく。

 浅間山の北麓に位置した鎌原村は、天明の浅間山大噴火により壊滅的な打撃を受けた地域である(現在の吾妻郡嬬恋村鎌原)。
 鎌原村はその被災規模の甚大さから「日本のポンペイ」とも呼ばれており、被害状況を数字で見れば、村内全118戸が流失、死馬全165頭、死者は477名。村は、高台に建つ鎌原観音堂を唯一残してほぼ全土が失われた。奇跡的に助かったのは、観音堂の石段を駆け上がって境内に辿り着いた者と、たまたま村外に出ていた者の計93名のみ。ちなみに浅間山が噴出した土石なだれは、観音堂の石段を15段だけ残して止まっており、「天明の 生死を分けた 15段」の痛々しい跡は現在も確認することができる。

 命は助かったものの、田畑・家屋・牛馬はもちろん、両親や夫・妻・子どもまで一瞬にして失った村人の絶望は計り知れない。誰も彼もが乞食をするほかなく、見境をなくして狂ったようになっていったという。もはや離散と村の崩壊は免れない――そんな地獄絵図に手を差し伸べ、復興に向けて異例の提案と援助をしたのが、隣村の有力百姓である3名の世話人であった。
 世話人たちが具体的に何をしたのかは、『浅間山噴火大和讃』なる念仏に簡潔に示されているので一節を引用すると、

隣村有志の情けにて 妻なき人の妻となり 主なき人の主となり

 読んで字のごとく、世話人は妻を亡くした夫と夫を亡くした妻を再婚させ、子を失くした親に親を亡くした子を養子として養わせ、新たな家族の門出を祝福して援助したのである。つまり、それまでの身分や血縁を一切廃して、生存者93名を「骨肉の一族」として契らせたのだ。家筋や素性に重きを置いていた江戸時代の寒村の人たちにとって、これはどれだけの衝撃であっただろう。正直、想像もつかない。
 やがて一族となった鎌原村の人たちは、近村の手厚い支援を受けて、少しずつ村を再建していった。噴火のあったその年のうちに家屋11件を再建し、後年に続く天明の大飢饉を辛うじて乗り越え、その後100年をかけて復興を遂げたというのだから驚きだ。
 非常事態に最善の対応を模索した世話人の手腕は言わずもがな。惨憺たる状況に打ちのめされても決して折れず、悲しみを堪えて、苦しさに耐えて、唇を噛んで生き抜いた鎌原村の人たちの強さには涙を禁じ得なかった。

 高崎市では達磨大師の「面壁九年」に感嘆し、みどり市では星野富弘氏の来歴に唸った。
 自分はやわらかなタッチで描かれた花の詩画を見たことがあったが、それが、体育教師時代に頸髄を損傷して手足の自由を失った星野氏が口に筆を加えて制作した作品だとは知らなかった。富弘美術館では、星野氏を支え続けた母親や家族の献身的な介護にも、覚悟を孕んだある種の強さを感じた。

 これに類似した場面として個人的にふと思い出すのは、片マヒのリハビリに励む民泊のご主人とそれを支える奥様。それから、4年を費やしてペンションを独力改修した、陰謀論に憂える男性オーナー。つらい仕事を、自ら調合した香りで慰めながら頑張っている優しい建築屋のお兄さん。自分が群馬で出会ったのは、無言で耐え忍び、それでも決して諦めない人たちだった。
 戦い続ける人は皆強く、血の通った強さは否応なしに人を彩る。
 それは上毛かるたの赤い読札のように、猛烈な主張を伴っておのずから輝く。
 思い通りにならない毎日を歯を食いしばって生きていく人の強さは、上毛かるたの「ら」の札に秘められた真っ赤な情熱に似てアツく、気高く、自分は安直な成功談よりもそんな泥臭さにこそ眩しさを覚える。

 群馬の人は強い。雷にも空風にも負けない。
 群馬の人の義理人情の厚さは、自分が道中で受けた温情の数々を振り返ればもはや説明不要だ。この文章に書ききれなかったささやかな親切も山ほど頂戴しているが思い切って割愛する。本当にたくさんよくしてもらった。今となっては直接伝えられない人も多いが、改めてここに感謝申し上げる。
 いつかそれに報いたいと、心から思う。
 自分はきっとまた群馬を訪れるだろう。

■群馬県で訪れたスポット(宿泊地・飲食店・スーパー等除く)

NOSPOT
1慰霊の園
2こんにゃくパーク
3富岡製糸場
4群馬県立世界遺産センター セカイト
5一之宮 貫前神社
6妙義神社、富岡市妙義ビジターセンター
7少林山 達磨寺
8赤城神社、県立赤城公園ビジターセンター
9榛名神社、県立榛名公園ビジターセンター
10榛名歴史民俗資料館
11伊香保温泉街
12石段の湯
13徳富蘆花記念文学館
14草津温泉街
15白旗の湯
16重監房資料館
17富弘美術館
18やんば天明泥流ミュージアム
19水上温泉 みなかみ水紀行館
20谷川岳インフォメーションセンター
21ふれあい交流館
22湯テルメ・谷川
23生方記念文庫
24吹割の滝
25群馬県の道の駅 全32駅