祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ
降りしきる豪雨の向こうで、薩摩琵琶奏者の平桜子さんが弦をかき鳴らす。
揚羽蝶の家紋が美しい緋の垂れ幕がしとど雨に濡れる。
泥濘みに足を取られながらも武者や姫達の行列は進む。
六月第一土曜・日曜、降水確率100%、場所は湯西川温泉――平家大祭を観に来ている。
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栃木県日光市の中心街から国道121号を北上し、鬼怒川温泉を越えて、県道249号線で森を縫うようにさらに山奥へ。急峻渓谷の秘境に開けた小さな里・湯西川温泉は、日本各地に残る平家落人伝説の地のひとつとして古くから知られている。
平家落人伝説――かつて京に栄華を誇った平家一門が、源平合戦で敗戦を重ね、やがて没落していくことは『平家物語』が語るところだが、合戦に敗北した武士や平家関係者に焦点を当てれば、彼ら彼女らは平家殲滅を目論む源氏の追っ手を逃れ、人里離れた山奥へ隠遁したとの言い伝えがある。
そうして山里に落ち延び、人目を避けて静かに暮らした平家の生き残りを俗に「平家の落人」と呼ぶ。信憑性はさておき、そんな平家落人伝説が残る地は全国各地に存在する。
かつて源氏方に発見される要因となったことから、端午の節句に鯉のぼりを上げない、鬨の声を告げる鶏も飼わない、といった風習が残る湯西川温泉は、平家落人の隠れ里のなかでもその伝承がかなり確からしいとされる土地である。
市街地を遠く離れ、かつて平家落人が遁走したとされる山道を行く。
舗装路に限るが、これでも自分は数多くの狭隘路をカブで走ってきた身。道路脇に現れるのが鹿や猿や小動物の類ならそうそう驚かないが、湯西川の森閑たる山の中では行く先を蛇が横断していたから肝を冷やした。
それほどまでに山深く、鬱蒼として、しめやかな湿度を孕んだ湯西川温泉の地では、かつて毎年六月第一日曜日に、平家落人を偲ぶ祭典である「平家大祭」が行われていた。過去形で記したのは、この4年間はコロナ禍により中止を余儀なくされていたからだ。
5年ぶりに開催された平家大祭の花型は、平家武者や姫君の姿に扮した行列が、温泉街から、湯西川赤間神宮を敷地内に持つ観光施設「平家の里」までの約1kmを練り歩く平家絵巻行列だ。
平家大祭では他にも、薩摩琵琶による『平家物語』の演奏や和太鼓の実演、蘭陵王の舞の奉納、赤間神宮への上臈参拝が行われるが、翌日の新聞地域面で平家大祭を取り上げたいメディアのお目当てはやはり平家絵巻行列のパレードである。
平家の隠れ里の風情がいかんなく溢れる証左としてアクセスの厳しい秘境・湯西川温泉だが、この日はメディアのみならず県内外から見物客が訪れていた。辛うじて雨天を免れた前夜祭では、温泉旅館から浴衣姿の見物客がそぞろ出てくる光景が趣深かった。
多すぎない人入りがかえって相応しい前夜祭の上臈道中では、絢爛豪華な着物の裾をさばいて外八文字に歩く太夫の花魁姿に歓声が上がる。十数cmもある高下駄を履いてしゃなりしゃなりと歩く日光江戸村のキャストはすごい。その艶やかな姿を写真に収めようと、観光客が併走するのも微笑ましい。
しかし一方で、なぜ平家落人を偲ぶ祭りのさなかに花魁道中があるのか、という疑問がにわかに浮かぶ。フォトジェニックが鍵である昨今の観光イベントにおいて、県議会議員や市長といったお偉方までコスプレをする平家絵巻行列はただの客寄せ行事だとしても、わざわざ別枠で遊女が練り歩く理由はなんだろう。
これについては「平家の里」で拝読した冊子に詳しく載っていた。
というか自分は、翌日の大祭でその冊子を読むのに没頭していたがために肝心の平家絵巻道中を見逃しているので、この場ではこれしか語ることができない。
結論から簡潔に述べると、湯西川温泉の平家大祭における上臈道中・上臈参拝は、山口県下関市にある赤間神宮で行われる「先帝祭」という祭事をもとにしている。
ここでいう先帝とは、壇ノ浦にて平家の敗北を悟った二位尼とともに入水された、安徳天皇のことである。祖母にあたる二位尼から「浪のしたにも都のさぶらふぞ」と慰められ、当時八歳の安徳天皇が身を崩ぜられる悲劇的なシーンは『平家物語』でも屈指のインパクトを誇る。
それゆえ竜宮城をイメージした水天門を構える赤間神宮の主祭神は、まさしく安徳天皇であり、「先帝祭」では安徳天皇の御霊を慰める目的で、上臈たる花魁姿の遊女が赤間神宮まで参拝する習わしとなっている。
このとき赤間神宮まで参拝する上臈は、もとを辿れば、平家女官の生き残りである。
壇ノ浦の戦いでの大敗で入水したのは、何も武将や安徳天皇だけではなかった。平家方の女官の多くも平家滅亡を儚んで海に身を投げている。
帝を追って水底へ沈む女官あれば、漁師や里人に助けられる女官あり。しかし宮仕えの彼女たちはこれといった生活の術を持たない者ばかり。死に損なった女官たちは野山の草花を手折り、沖がけの船人に売ってほそぼそと暮らした――という解説は「しものせき海峡まつり」のチラシに見ることができるが、より直線的に転落し、厳しい境遇に身をやつした者も当然あった。皆まで言わないが後年下関には花街が生まれている (ちなみに、野山の草花を手折って売る、とはまさに「花売り」を指す表現である)。
仕えるべき主を失って、生活のために夜毎の客を主とする遊女にまで没落した女官たち。しかし嗚呼哀しきかな。彼女らはそんな境遇に流れ着いても、在りし日の主人・安徳天皇の命日を忘れることはしなかった。帝の命日は旧暦の三月二十四日。元女官たちは毎年必ず、その日は威儀を正して帝の御影堂を参拝し香華を手向けたという。
これが上臈道中・上臈参拝の原点である。
なお、煌びやかな花魁装束を纏った遊女が衆人環視のなかで練り歩く今のスタイルになったのは江戸時代後半からだとされている。
昭和60年に赤間神宮から唯一分祀されたお宮・湯西川赤間神宮がある「平家の里」。
そこを会場とする平家大祭で披露される上臈道中・上臈参拝は、規模こそ控えめだが、上記の習わしを踏襲しているのである。
集会用テントの観覧席から豪雨のカーテン越しに鑑賞する、独特の作法が特徴的な上臈参拝。
艶やかで優雅な花魁姿に、高価な機材を抱えたカメラマンが一斉に身を乗り出す。
しかし落ち延びた女官たちが辿った歴史のレンズを通して見ると、その美しさはただただ切なく、そこに平家落人の落涙のような雨の冷たさも相まって、なんだかひどく沈痛な気持ちになった。
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祭事中に低体温症で運ばれる見物客まで現れるような悪天候に見舞われながらも、平家大祭は関係者の尽力によりすべてのプログラムを終了した。
平家絵巻行列に参加していた武将や姫君はとうに解散し、皆がまばらに帰宅する道すがら、自分は極寒の運転に耐えられず目についた観光施設・湯西川 水の郷へ避難した。
とにかく一時の風雨を凌げればよいと飛び込んだ木小屋の屋台処で、紙コップ1杯300円のホットコーヒーを頼む。
六月頭にも関わらず石油ストーブが焚かれている小屋のなかで、濡れたヘルメットと手袋を絞って震えていると、店で駄弁っていたおばちゃん達が「ストーブの近くにいらっしゃい」と気遣ってくれた。
雨の中寒かったでしょう。あらあらそんな遠くから来たの。雨脚が弱まるまでここで温まっていきなさいね。おばちゃん達が掛けてくれる言葉と、恐らく原価激安のインスタントコーヒーが身に染みて温かい。
店内に貼られた、雅やかな平家絵巻行列のポスターを見てふと思う。
湯西川温泉まではるばる逃げ延びてきた平家落人は、パレードのような華々しい姿で湯西川を訪れたのでは断じてない。源氏方の追っ手を避けるために、地味で粗末なぼろきれを纏い、山合いの道なき道に蹴躓きながら、息を潜めて歩いてきたに違いない。
冷たい雨に耐えかねて、あばら屋の軒下でやり過ごす日もあっただろう。
そんなとき、平家落人の彼ら彼女らにも――雨の中寒かったろう。なんだいそんな遠くから来たのかい。雨脚が弱まるまでここで温まっていきな、と――親切な里人に暖を取らせてもらうような心休まる場面があったなら、839年後の平家大祭で思いがけず感傷的になってしまった自分も、いくらか救われるような気がした。