「私たちはね、70年かけて失ったものを、100年かけて取り戻そうとしているんだ」
場所は栃木県西部、渡良瀬川の最上流部にある足尾銅山のお膝元。
足元には、銅鉱発見の山・備前楯山を中心とした山村の鳥瞰写真。
大パノラマを空中遊歩し、草木を失って砂色に禿げ上がった一帯を見下ろすようにして、NPO法人 足尾に緑を育てる会の施設案内人はそう言った。
地面に向かって指さす先は、かつて精錬所の北西にあった「松木」と呼ばれる地域で、思いがけず川上に位置していたそこは、曰く足尾銅山操業の煙害で荒廃したエリアである。
・・・
新緑眩しい平日のお昼過ぎ。足尾砂防ダムの水音と鳥の声がのどかに響く銅親水公園にカブを停めて、公園に併設されている『足尾環境学習センター』の戸を叩けば、
「あなた学校の先生かね?」
と、黄緑色のベストを着た案内人のおじいさん達からだしぬけに尋ねられるが、さもありなん。
そこは足尾銅山の観光スポットの役目を一身に担っている『足尾銅山観光』に比べ、あまりにも楚々とした施設だった。他の来館者は自分の後に続いてやってきた地元のおじいさん二名のみで、若年層は、基本的に学校行事でしか訪れないのだろう。単身やって来る若者は多分、課外授業の下見に訪れた教師と、周辺散策の後に時間を持て余した旅人ぐらいに違いなかった。
江戸から昭和まで約400年の産銅の歴史を誇った、国内随一の鉱山遺跡・足尾銅山。
徒歩や自転車で回るにはややハードな間隔で山内に散らばる、廃坑や製錬所跡、物資運搬に用いられた索道や橋梁遺構。鉱夫達の浴場跡、鉱山神社に寺に教会、往時の隆盛を偲ばせる洋風迎賓館。足尾の山の隙間には、そんな赤銅色の産業遺産群が息を潜めている。
徳川幕府の御用銅山となっていた時分には、江戸城や日光東照宮などの銅瓦に用いられ、海外への輸出品としても重宝された足尾産の銅。足尾では寛永通宝という貨幣も盛んに鋳造され、裏面に「足」の字が刻まれた「足字銭」も多く現存する。
足尾銅山は、江戸時代末期にかけてだんだんと銅の産出量が低下していったものの、明治時代に「直利」と呼ばれる富裕な鉱床が相次いで発見されたことから、急激に再興した鉱山である。その頃には精錬技術も近代化し、高品質な精銅を製造可能になっていたために、明治中頃、足尾銅山は東洋一の生産量を誇るようになる。
……のだが、反面、足尾銅山の成長は大きな環境問題を引き起こしていた。
それが歴史の教科書にも載っている、かの有名な、足尾鉱毒事件である。
事件の経緯は、教科書に記載されている一文を眺めるだけなら何ともシンプル。
足尾銅山における採鉱、選鉱、製錬などで発生した有害物質を含む廃水が渡良瀬川に流れ込み、下流域の水質汚染や農地の土壌汚染をもたらしたのだ。目に見える初期被害として、渡良瀬川の鮎が大量死し、下流域の稲が立ち枯れた。
この公害問題は、当時の衆議院議員・田中正造や被害地域の住民の運動により広く知られることとなり、当時の鉱業主・古河市兵衛は、政府の命を受けて堆積場・沈殿池・濾過池・脱硫塔などの鉱害防徐施設を建設している。他方政府は、渡良瀬川の下流に、鉱毒の沈殿と無害化のために、谷中村を犠牲にして日本最大の遊水地――今ではラムサール条約登録湿地にもなっているハート型のレジャーエリア――渡良瀬遊水地を作っている。
関東の土地勘がないまま日本近代史の授業を受けた自分にとって、足尾銅山と言えば鉱毒事件。そしてそれは、有害物質が流れ込んだ川の下流域で起こった騒動。学習指導要領に従順で、歴史を地理的に解釈する発想を持たなかった自分は、この歳になるまでそう思い込んでいて、
「あなたバイクで来たのかね。遠くから、ひとりで? そりゃたまげたなあ。
今はすっかり静かだけどついさっきまで遠足の小学生達がいたんだよ。私たちは普段この施設の運営のほかに、体験植樹のサポートもしていてね……」
だから、旅人にダムカードやら来館記念スタンプやらを勧め、仕舞いには周辺の道路情報まで調べ出してくれていた案内人のおじいさんが、次に植樹の話をし始めたことは衝撃に値した。
何故いきなり緑化活動の話なんだろうと素で思った。
足尾銅山のジオラマを用いた導入説明を聞き、パイプ椅子に腰かけて古き良きビデオを視聴してから、促されるまま展示室へ進む。親切なおじいさん達はマンツーマンで展示解説をしてくれる。
そして自分も、おもむろに気づく。
渡良瀬川の最上流部――まさに足尾鉱毒事件の発生源にあたる鉱山とその製錬所が存在した足尾の地において、住民が直面した公害は主に煙害だった。足尾地域の環境を学習するのなら看過できない大気汚染。周辺の草木を枯らして禿山に変えた、亜硫酸ガスを含んだ排煙。足尾の住民に被害を及ぼした有害物質は、やがて海へ流れていく水中にではなく、風向きに左右される空気中にあったのだ。
・・・
備前楯山の北西。渡良瀬川の上流。製錬所から風が流れてくる方向。
『足尾環境学習センター』の辺りを入口として、かつてそこには松木という地域があった。
中世以来三つの山村があったとされる松木地区は、明治17(1884)年に直利橋製錬所が新設された頃から、排出された亜硫酸ガスの影響により徐々に人が住めなくなり、その後大火で住居が減少してついに廃村に至った場所である。今は旧村の石碑のみが残る。
「大規模な山林火災が起こったとき、松木村の人たちは絶望しながらも『しばらく経てば、いつものように山は自然に再生するだろう』と考えたそうだ。だけどそうはならなかった。煙害の影響で、辺り一帯はもう木が生える土壌ではなくなっていたんだ」
案内人のおじいさんが、足尾銅山周辺を映した鳥瞰写真の上を歩きながら話す。
上述の火災は亜硫酸ガスのせいで枯れた木々に火が移って大事になったとも言われ、この頃には時既に遅しといった状態だったのかもしれないが、不幸なことに、先述した廃水対策の脱硫塔が建ってから事態は一層深刻になる。下流域への鉱毒の影響を軽減させようとした副作用で、風上への煙害が悪化したのだ。樹木が再生しないから地場産業の炭焼きも立ち行かなくなり、松木地区の住民は泣く泣く別の土地へ移転していった。
「廃村になって人もいなくなり、山には何もなくなった。裸地同然となった山には保水能力もない。石も砂も剥き出しに転がった荒地に大雨が降るとどうなると思うかね。皮肉なことに、禿山はひどい洪水の発生源となって渡良瀬川流域に度々被害をもたらしたんだ」
そう来れば、松木地区を中心とした足尾の山に治山治水の必要性が叫ばれるようになるのは時間の問題だった。
かくして、松木村が煙害に悩まされるようになってから70年後の昭和29(1954)年、渡良瀬川に注ぐ仁田元川・松木川・久蔵川の合流地点に足尾砂防ダム(足尾砂防堰堤)が完成する。ダムの着工から完成までに四年五か月。土砂災害の元凶たりうる禿山に無闇矢鱈に木を植えるわけにもいかず、治山工事はダムの完成を待って行われた。
木陰もなければ根株の足場もない砂の斜面。植樹するのは並大抵のことではなく、頭に手拭いを巻いて苗木を一本一本手植えする婦人たちのモノクロ写真が痛々しい。
反面、直射日光が照りつける地面でピクニックを楽しむ写真もあり、時々わずかに気持ちが和む。
館内には当時の役所職員が考案したという、植物の種と土を手軽なサイズのプレートに固めてそれを地面に並べていく緑化作戦が展示されていた。仕組みを聞けば得てして妙案で、プレート制作器械の名称が「リョッカ―」であるのがまた微笑ましかった。
輝かしい銅鉱業の歴史の裏で拡大していった荒地に、あとどれだけ樹を植えれば元に戻るのだろう。
長い時間をかけて失ってきた自然環境を取り戻すには、あとどれだけ活動を続ければいいのだろう。
松木地区の裸地の一部は、後世への警鐘のためにあえて植樹をせずに残す動きもあるそうだが、施設案内人にしてNPO法人 足尾に緑を育てる会のおじいさんが言うことには、
「目標は100万本。この先何十年、まだまだ植林を続けないとね」
場所は製錬所北西、河川の水の鉱毒被害こそなかったが、煙害に悩まされた足尾銅山のお膝元。
学習センターを出て顔を上げれば、砂防工事ゾーンの山肌に、産毛のようにささやかな萌黄色。
赤銅色の繁栄の影で、渡良瀬川下流と製錬所風上に刻まれた灰色の歴史と、読んで字のごとく、見渡す限り砂色に変わり果てた「松木」地域。
しかし今ではうっすらと、緑化活動の確かな成果として、荒れ果てた山林に回復のきざしが伺える。
青空を仰いで見つめた先は、銅山鉱業で70年をかけて失ってきた足尾の山の緑を、100年かけて取り戻すために、今日も植樹活動が行われているエリアである。