度し難い悲劇に直面したとき、人はどのような行動をとるのだろう。
ただその場に居合わせてしまっただけ。偶然目にしてしまっただけ。
その惨状に対して当人にまるで非がなくても、目撃者は何らかの呵責を覚え、できる限りを尽くしたいと思うのだろうか。
群馬県多野郡上野村、楢原地区。
日本航空123便墜落事故の墜落現場からおよそ10km離れた静かな集落で、異質な存在感を放つ三角形のモニュメントは、決して裕福とはいえない当時の村民らの寄進によって建設された慰霊塔だ。
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「そこの山に飛行機が落ちたんだよ。日本航空のジャンボジェット。もう40年近くなるから若い人は知らないだろうけど」
2年前、そう教えてくれたのは長野一周ツーリングで埼玉県芦ヶ久保~長野県軽井沢までを伴走したBMR R1250R乗りの男性だった。道の駅あしがくぼの駐車場で出会い、ひょんなことから国道299号の山道走行中に再会したその男性は、自分の旅程を面白がって周辺の道案内を買って出てくれたのだ。
男性の名前は確か本橋さん。ブックにブリッジで「本橋」と、すらすらと流れるような自己紹介に感動したのを覚えている。本橋さんに出会わなければ自分は碓氷第三橋梁、通称めがね橋の見事なレンガ造りを目にすることはなかっただろう。
当時は長野一周ツーリングの目的地・戸隠神社への道を急いでいたためその詳細を伺うことはなかったが、本橋さんは筋肉質な印象のR1250Rを繰りながら、群馬と長野の県境に鎮座する高天原山の尾根――御巣鷹山の尾根を指さした。
それを思い出したのは、旅の途中で立ち寄った「道の駅うえの」の周辺案内図に『慰霊の園』の文字を見つけたときだった。
昔、飛行機の墜落事故があった場所。自分は本橋さんの言葉を思い出し、感傷的でも楽天的でもないフラットな気持ちで行ってみようと思った。多分拒絶はされないだろう。地域住民のみに開かれている鎮魂の場なら、観光客向けの周辺案内図に記しはしないだろうから。
日本航空123便墜落事故(日航ジャンボ機墜落事故)。
昭和60年8月12日、羽田発大阪行きの日本航空のジャンボ機・ボーイング747が、機体不具合による操縦不能のために、上野村の高天原山の尾根に墜落した事故である。乗客524名のうち死者520名。お盆の帰省ラッシュに重なっていたこともあり、歌手の坂本九をはじめ著名人を含めた多くの犠牲者が出た。日本の民間航空史上最悪の事故であり、単独機の事故としては世界最悪の航空事故とされている。
操縦室の音声記録から推測される事故の経過調査、墜落に至った機体損傷の原因究明、航空会社の体質や報道機関への倫理の問い直し――と、この辺はTVドキュメンタリーや大衆小説などが得意とするところであろう。
慰霊の園に漂う空気はこれとは違う。
御巣鷹山の尾根を指す三角形の慰霊塔は両手を合わせるような姿で、楢原集落の開けた場所にあった。この追悼施設ができたのは事故の翌年。事故現場である御巣鷹山への慰霊登山が難しい高齢遺族に配慮し、車で訪問可能な場所を選んで建てられている。
耳が痛いほどの静謐のなか、参拝の車はしかし一台また一台と絶えることなく現れる。
慰霊塔の奥には身元不明の遺骨を埋葬した納骨堂、脇には観音菩薩像があった。そこでは誰某の過失を詳らかにすることも糾弾することもなく、ただひたすらに犠牲者への鎮魂の祈りが捧げられていた。
だから慰霊塔に併設された資料館で語られるのは、もっぱら墜落事故の「事実」ではなく、墜落事故の現場に居合わせた者たちに寄り添う「感情」の話だ。
資料館の展示として来訪者の胸を揺さぶるのは、墜落現場から発見された、ひしゃげた眼鏡や子どものお土産だったかもしれないミニーマウスのぬいぐるみ。誰が見ても悲しくかわいそうな犠牲者の遺品。
そして看過できないのが、当時捜索・救助活動にあたった上野村の住人――悲劇の目撃者たちが語った映像記録。それは行きずりで訪れた自分を静かに打ちのめした。15分と30分の短い映像は、加害者と被害者の直接関係の外にありながら深く傷ついた人たちへ考えを巡らせるのに、十分な力を持っていた。
昭和60年8月12日の、夏の長い日も沈んだ頃。
羽田空港の東京管制部のレーダーからジャンボ機が消失してすぐに防衛庁・警察庁・消防庁・海上保安庁などによる捜索が始まったが、何せ、容易に衛星画像を取得できたりドローンを飛ばせたりする現代とは違って、墜落地点さえ特定に難しい時代である。
そのうえ墜落予測地点は、県警職員にとってまるで知見のない県境の山の中。
そこで捜索・救助活動に駆り出されたのは、上野村の猟友会や消防団だった。
急峻な尾根の続く暗く険しい獣道を、山慣れしていない県警や自衛隊を率いて懸命に案内した猟友会や消防団の力添えあって、やがて一団が墜落現場を発見するが、辿り着いた現場はまるで地獄絵図。辺りに散らばった体の一部に、全身挫傷して人間の形を留めていない遺体の数々。少数名の生存者の救助に尽力して戻った村人は、その惨状の説明を求められても言葉に表すことができなかったという。
一方そのころ上野村の住区は、日本各地から集結した県警ほか報道陣でごった返し、当時村役場の職員であった女性曰く、来客対応や炊き出しなどで奔走せざるを得なかったという。また、対策本部に体育館等を占拠された子どもたちは遊ぶこともままならなかったという話だ。猟友会や消防団に属する者に事故現場の話を聞いても、彼らは沈痛な面持ちをするだけで何も語らず、底知れず暗い雰囲気が村中に蔓延していく。付近に飛行機が墜落したことで、人口2,000人に満たない上野村は陰気な喧噪に包まれた。
ただ、飛行機が自分が暮らす村に墜落しただけ。偶然上野村だっただけ。
その惨状に対して上野村の人たちにはまるで非がないのに、彼ら彼女らは半ば強制的に悲劇の目撃者となってしまった。報道機関による生活妨害といった二次被害さえ受けた。
居合わせただけなのに傷ついた人たちが、確かにそこにいた。
冒頭に述べたように、日本航空123便墜落事故の慰霊碑や慰霊の園は、少なからず上野村の村民有志らによる出資で建てられたものだ。現在は毎年8月の慰霊式典を含め、公益財団法人によって管理運営されているが、その実体はやはり上野村の人たちである。
墜落事故に対して直接の加害者でも被害者でもない――それに今では事故から40年も経過しているのに――今日上野村に暮らす人たちは、墜落事故の遺族にとって大切な場所・慰霊の園を守り続けている。
悲劇の目撃者が背負わされる得体のしれない影に絶句しながらも、ただの目撃者がなぜそのような行動をとるのか不思議に思う。
その行動はとても尊いけれど、悪者のいない呪いに似ていて何となく恐ろしい。
巻き込まれただけなのに、無意識にその身に担っている責任にぞっとさえする。
墜落事故当時の上野村村長で、捜索・救助活動を見事な手腕で指揮し、その後も慰霊事業や交通安全祈念に力を尽くした黒澤丈夫さんは、短い映像の最後でこう話していた。
――うちの村に飛行機が墜落したのも何かの縁だから、精一杯できるだけのことをして犠牲者の霊を弔おう。
それが「人としての道」だ、と。