富岡日記

 古墳に城址、史跡旧跡、産業遺産の建築物。
 建築物の保存状態が良好であったとしても、今や本来の用途を失ったがらんどうのそれを見て、当時そこで生活していた人たちを想像することは案外難しい。建物が展示・保存目的で修理され、内壁のさらに内側が見事なガラス張りで保護されているのならなおさらだ。

 明治5(1872)年に設立された模範器械製糸工場・富岡製糸場。
 明治維新後、政府が外国と対等な立場を獲得するために推し進めた産業科学の近代化において、その資金源となる生糸の生産・輸出量を増大させる目的で建てられた製糸工場である。当時最先端であった西洋式の繰糸器械を備え、未来の技術指導者を育成するために全国から工女を募ったこの模範工場は、平成26(2014)年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録されている。
 
 そんな、日本の近代産業の夜明けを物語る富岡製糸場までは、上州富岡駅から徒歩15分。
 製糸工場であったがために戦火を避けた主要建築物は、桜咲く鏑川の北畔に、往時と変わらぬ姿で残されていた。
 平日ゆえに人足はまばら。しかし門の向こうには十分な数のスタッフが待機しており、滞りなく入場券を購入できた。次いで、解説員による有料の定時ガイドツアーと、自前のスマホで利用できる音声ガイドアプリの案内を受ける。後者はイヤホンとスマホ片手に自由見学を促すもので、製糸場内の無料Wifiに接続して、各々のタイミングで著名声優の説明朗読を聞くことができる仕組みである。
 
 広い敷地内を見学順路に従って散策すれば、レンガの向きを長い面と短い面に交互に並べたフランス積みの壁に、自然光を取り入れるための大きな板ガラスが目につく。中央に柱を立てないトラス構造を採用したことで長さ140mもの大空間を確保した繰糸所は圧巻で、その巨大でモダンな建築物からは、西洋に追いつこうと躍起になった明治政府の貪欲な姿勢がありありと感じられた。
 その一方で繰糸所内では、かつては300釜が設置されていたという自動繰糸器の縦列にはすべて塩化ビニールのカーテンがかけられていて、それらは実演器を除いて一ミリたりとも動かない。繰糸器は手の届く距離にあるのに透明カーテンに接近を拒まれる。
 乾燥させた繭を貯蔵していた西置繭所に至っては、令和2(2020)年に保存整備工事が行われ、今では耐震補強用の鉄骨を活用したガラスの部屋となっている。内部には工女の制服などといった歴史的資料が展示され、イベント用の多目的ホールまで設けられていた。
 つまり、建築物の外観は在りし日のままの姿で残されているのに、その内部は極めて現代的な仕様に作り替えられ、当時の様子を偲ぶことが非常に難しい事態になっているのだ。繰糸器の音もしない、工女も従業員もいない製糸場は、言わば空き箱。観光遺跡によくある蝋人形の制作を希望するものではないが、30年以上前に稼働を停止しさらに別目的の部屋となった場所に立って、当時そこで働いていた人たちを想像するのにはあまりにも手強い――

 と想像力の限界を感じて挫折しかけたとき、『富岡日記』という書籍を知った。

『富岡日記』は、明治40(1907)年に、横田英(新姓だと和田英)さんが初期工女として富岡製糸場で働いていたころを回想して記したものである。なお、信州松代の旧藩士の娘であった横田英さんは15歳で富岡製糸場の工女となったのち、故郷に帰って六工社という名の民間製糸工場を創業している。富岡製糸場で技術を学び故郷へ伝え広めた、まさに伝習工女のモデル女史として活躍した人物である。

 ネットで無料で読むことのできる『富岡日記』は、当時の就労環境や製糸場に携わった人たちの様子が伺われる重要な資料であると同時に、年若い工女たちの生活がいきいきと活写された上質な読み物であり、『お前はまだグンマを知らない』(井田ヒロト・新潮社)にして言わせれば「英ちゃんたち思春期女子のキャッキャウフフ」を妄想するに足る等身大のエピソードに満ちている。
 親元を離れて「フランス人に生き血を抜かれる」と噂高い富岡製糸場へ出立し、いずれ故郷に建設される製糸場の指導者となる使命を帯びて、一等工女を目指して技術向上に努めた姿は、近代の女性活躍社会の先駆けとして感服を禁じ得ない。
 その傍ら、作業中に工女同士で喋っていたら監督者に叱られたり、宴会芸で盆踊りをやらされたり、フランス人技師の妻にビスケットと葡萄酒を御馳走してもらったりなど、少女目線で綴られるささやかな日常が読者に生活感を想像させる。ともに入場した友人が病気に罹って帰国してしまったことや、自分たちより後から来た山口県の工女が先に繰場へ上げられるのを「依怙贔屓だ」と号泣して役人に申し立てたこと、寄宿舎の不気味な空き部屋に火の玉を見て皆で震え上がったこと……
 飾らない文体の語りによって、工女と彼女らを取り巻く人たちの生活がようやく見えてくる。富国強兵の世相のもと、富岡製糸場の関係者が士気の高い人材の集まりであったことは疑いようがない。しかしそこで働いていた人が四六時中兵士のように仕事に没頭していたかと言えばそうではないだろう。歴史の教科書で語られずとも、かの富岡製糸場でも、人々は笑って怒って悲しんで、自分たちと同じように不満を言ったり喜んだりしながら生活していたのだ。

 当時の英さんの目を借りてみれば、様変わりした今の操糸場にも、紡いだ糸が切れないようにと祈りながら手を動かす工女の姿が思い描かれる。見回りの書生やフランス人がたちまち姿を現す。工女たちはときに先輩の指南を受け、ときに仲間と目くばせし、業務時間が終われば寄宿舎の廊下をぱたぱたと駆けていく。
 英さんは富岡製糸場に到着したときこそ、

一同送りの人々に付き添われまして富岡製糸場の御門前にまいりましたときは、実に夢かと思います程驚きました。生れまして煉瓦造りの建物など、まれに錦絵位で見るばかり、それを目前に見ますることでありますから、無理もなき事かと存じます。 

 と『富岡日記』中で語るが、その後も毎日その建物に感動していたわけではあるまい。
 その場所はあくまで仕事場であり、技術を国元へ持ち帰るための研修の場である。今では世界遺産としての意義ある建造物だが、ここは紛れもなく人の生活の場であった――ここで人が生活をしていたことを自分はやっと想像できて、少しほっとした気持ちになった。

・・・

 富岡製糸場の見学後、かつて英さんら工女も参拝したという一ノ宮貫先神社を参拝した。参道の階段を上って大鳥居と総門をくぐったのち、社殿に続く参道の階段が下っていく全国的にも珍しい神社である。『延喜式神明帳』にも名神大社として列せられている歴史ある貫先神社は、日本三大下り宮の一つとされ、特に社殿は国指定重要文化財にも登録されている。

 時刻は閉門間際の午後四時。大鳥居までの上り階段の参道を見上げれば、ざっと二十余名の体操服姿の中学生が、元気よく声を出して筋トレをしていた。恐らくは放課後の部活動の一環だろう。四つん這いになって足から階段を上がっていく逆立ち風のトレーニング姿が可笑しく、Tシャツのお腹が捲れ上がるのもお構いなしの若々しさに思わず笑顔になる。
 観光客である自分に気づいた少年たちが、
「こんにちは!」
 と運動部ならではの活きのいい挨拶をくれる。
 が、階段の隅に寄ったあとも面白ポーズの筋トレは止めない。
 そうか。神社参道の階段を筋トレに利用する地元中学校の運動部の彼らには、古式ゆかしい神社だとか重要文化財だとかは日々意識することではないのだ。きっと大会前などに勝利祈願の参拝こそすれど、彼らは毎日その本殿・拝殿・楼門といった建築物の荘厳さに感動しているわけではない。なぜならそこは彼らの生活の場に過ぎず――反転して、建築物のもとにはやはりたくさんの人の生活と等身大の喜怒哀楽がある――明治時代の工女に引き続き現代の少年たちが、改めて自分にそう感じさせてくれた。